古典的な文筆の世界では「筆戦(ひっせん)」と優雅に呼び、デジタル空間では「ネット論争」、英語圏では「Flaming」、日本のネットスラングでは「レスバトル」や「クソリプ合戦」などと呼ばれます。表現の装飾を剥ぎ取ってしまえば、本質はすべて「エゴのぶつかり合いによる口喧嘩」にすぎません。
言論闘争といえば、かつての著名な文豪たちが互いを「資本家の走狗」「体制の傀儡」と紙面上で罵り合った激しい論戦が思い起こされます。しかし、現代の党派的な政治対立と同じように、どれほど高尚なレトリックで飾られていようとも、構造はまったく変わりません。
そして歴史的な文豪たちによる論戦ですら、社会に実質的な進歩をもたらすことはなく、後世に「文人相軽し」の滑稽な証拠を残したにすぎませんでした。ましてや、現代のSNSのコメント欄で名もなき一般人同士が繰り広げるイデオロギーの小競り合いなど、他人の意見を否定して自尊心を満たし、安っぽい優越感を得ようとする心理的ミームの消費にすぎません。
社会科学の知見が示す通り、感情的な論戦は議論を本来のテーマから脱線させ、論点を無限に拡散させ、最終的には人格攻撃と泥仕合へと矮小化させます。
冷徹に観察すれば、ネット上のレスバトルは人間社会において「最も時間と生命を無駄にする行為」の一つです。何の実質的利益も生まない上に、貴重な自分の人生の時間を削り取られます。たとえ相手の論理破綻を完璧に論破したところで、相手が「その通りでした、私の間違いでした」と素直に感謝して改心することなどあり得るでしょうか?
相手にとってあなたが絶対的な権威でない限り、論破された側が抱くのは啓発ではなく純粋な「敗北感」と「屈辱」です。そして屈辱は、自己防衛のための強烈な反発と認知的不協和を生むだけです。
しかし、SNSが隅々まで浸透したこの時代において、頭では「時間の無駄だ」と分かっていても、知らず知らずのうちに不毛な論戦の泥沼に足を踏み入れてしまう誘惑はどこにでも潜んでいます。私自身もその例外ではありません。
私の思考は多層的であり、ドグマ的な固定観念に固執せず、新たな情報を取り入れて論拠をアップデートし続けることを好みます。そのため、スマホの短文コメントで一言で断定できない複雑な問題には沈黙を守るのが賢明だと理解しています。
しかし、タイムライン上で看過できない初歩的な論理の飛躍を目にした瞬間、脳内に反証のロジックが自動的に溢れ出してしまうのが悩みの種です。
例えば以前、Facebook上で「清朝の宮廷には美男美女がいたのか?」という問いに対し、「全部嘘だ、当時の写真を見れば全員ブサイクだと分かる」と断言する投稿を見かけました。私は思わず、「美男美女は当然実在したが、皇室の婚姻は政治的同盟が最優先であり容姿は二の次だったからこそ、冷遇された側室の悲話が山ほど残っているのだ」と返信してしまいました。
数枚の古びた白黒写真だけを根拠に何百年もの歴史や美意識を全否定することは、「現代の基準で過去を一方的に裁く」という現在主義(Presentism)の典型的な罠です。それは井戸の底から見上げた狭い空を世界のすべてだと錯覚する蛙にすぎません。
私自身は単に思考の死角を提示したつもりであっても、受け手側にとっては「平穏な日常に突然現れた敵からの攻撃」と映ります。尻尾を踏まれた猫のように、過剰で攻撃的な自己防衛反応を引き起こしてしまうのです。
全く新しい知的な示唆が得られるような建設的な対話でない限り、SNSでの言い争いに付き合うのは人生の浪費です。睡眠は生産性を一時停止させますが生物学的に不可欠です。しかし、顔も知らない他人とのレスバトルは完全に放棄できるものです。もしどうしても議論を交わすなら、相応しい舞台と対話相手を厳密に選ぶべきです。さもなければ、静かに画面を閉じ、自分の人生のために貴重な時間を使うべきなのです。
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