民国22年(西暦1933年)5月15日、米国ニューヨーク・タイムズは中国の長寿老人・李清雲(Li Ching-Yuen)を紹介する訃報記事『亀雀狗』(CHINA: Tortoise-Pigeon-Dog)を掲載した。
記事によると、李清雲自身の話として、彼は清の乾隆元年(西暦1736年)に生まれ、前後して24人の妻を娶り、180人の子女を養育し、11代を超える家族を持ったという。そして彼の長寿の秘訣は、平静な心を保ち、坐れば亀の如く、歩けば雀の如く、眠れば犬の如くであることだった。
ニューヨーク・タイムズは記事の中で、李清雲が西洋人の目にはごく普通の60歳の中国人に見えると疑問を呈したが、同時に成都大学の教授・胡忠謙(Wu Chung-chieh)が1930年に歴史文献を調査したところ、清朝の公式記録が1827年に李清雲の150歳の誕辰を祝っていたことも指摘した。年齢が高いほど尊重される東洋社会においては、おそらく誰も李清雲が256歳だと言えない理由を本当には気にしていなかったのかもしれない。
民国16年(西暦1927年)、李清雲は当時の四川省長・楊森将軍の招きで四川の万県を訪れた。楊森は老人の老いてますます壮んなる姿と卓越した中薬草採集の技能に深く魅了され、ここで李清雲の肖像写真を撮影し貴重な記録を残した。後に楊森は民国66年に台北で病死し、94歳の天寿を全うした。民国60年には87歳の高齢で玉山に登ることさえできた。

二百年の人生を総括して:「世界自ら乱れ、吾が心自ら治まる。」
翌年の民国17年(西暦1928年)、李清雲は『長生不老訣』(Secrets of Immortality)を著し、その内容は以下に掲載するとおりである。彼は著書の中で長寿の鍵は気功による健身にあると自述した。李清雲は「剛柔相済、陰陽調和」の方法で身体を鍛えることを提唱した。
彼は自身が健康で長寿である理由を三つ挙げている。第一に長期的な菜食、第二に内心を平静で朗らかに保つこと、第三に年中クコの実を煮てお茶代わりに飲むことである。長寿と養生に関心のある人はこれを参考にすることができる。
『長生不老訣』
長生の術には十の道がある。曰く、打坐、降心、煉性、超界、敬信、断縁、収心、簡事、真観、泰定。
この十道を解することができて初めて、延齢を語るに足る。この十道の精微を得て初めて、長生を語るに足る。病を退け年を延ばす法、老いを返し童に還る機は、皆これに係っている。
打坐の道は、体を端正にし、目を閉じ瞑ること、これは仮の打坐である。打坐の道とは、一日中、行住坐臥のいずれにおいても、心は泰山の如く動かず揺れず、六根は出でず、七情は入らない。もとより富貴ならば富貴を行い、もとより貧賤ならば貧賤を行う。遇うところとして安からざるはなく、入るところとして得ざるはない。このようにできれば、必ずしも参禅入定する必要はなく、すなわち肉身の仙である。
降心の法は、湛然として動かず、昏昏默默として万物を見ず、杳杳冥冥として内外を分かたず、絲毫の欲念も生じない。これこそ真定であり、降ろす必要はない。もし心が境を逐って馳せ、感念するところがあり、頭を覓め尾を尋ね、あるいは静かに見聞するところがあって、無数の幻象が現れ出れば、心は敗壊を生じ、道徳は損なわれる。降ろさざるを得ない。
煉性に至っては、琴を揺らすが如くである。緩やかならば応ぜず、促やかならば玄が断つ。緊と緩が中を得れば、琴の調べは美しい。また剣を鋳るが如く、鋼が多ければ折れやすく、鉄が多ければ錈じやすい。鋼鉄が中を得れば、剣は利となる。真の旨はこのようである。真性を煉る者は、深く体得し善く解すべきである。
界には三界があり、欲界、色界、無色界である。私欲を渾忘すれば、すなわち欲界を超える。塵境を葷忘すれば、すなわち色界を超える。空相に著かなければ、すなわち無色界を超える。この三界を超えれば、煩悩は生じず、邪魔は遠く避ける。
敬は道の根であり、一を主として適うところなきを謂う。信は決然として疑いなく、真実にして虚ならざるを謂う。よく敬信を行えれば、すなわち聖賢仙仏である。孔子曰く、敬して信、もって親信す。聖人もまたここから手を下したことが見て取れる。
断縁とは、塵縁を断つことである。塵縁断たざれば、最も心を蔽い、万般の聡明も皆これに蒙られる。凡人は栄辱得喪の心なくんばあらず、されば機械の念が生ずる。機械の心が生ずれば、万種の時を干し利を求むる事が作られる。ここにおいて紛々擾擾、塵縁人を擾し、心は片刻も安からず、神は片刻も定まらず、もってその寿命を促す。これは大忌である。古人曰く、事を棄てれば形は労せず、無為なれば心は自ずから安し。徳を顕わして能を露わすこと勿れ、己を彰わして人を抑えること勿れ。一切の栄辱得喪の情を念に繋がず。一切の生老病死の事を心に蒙らせなければ、塵縁は自ずから断たれる。古人の長生の道を修めた者は、皆このようであった。
収心に至っては、さらに一層進む。心は一身の主、全神の舎であり、静なれば慧を生じ、動なれば昧くなる。人情は幻境に迷い、これを真実と思い、甘んじて汚染を受け、洗濯を加えず、蒙蔽は日々深まり、道を離れること愈々遠くなる。もし日々新たにまた新たに、塵を絶ち境を離れ、虚霊空洞にして一物にも著かず、心と道が合すれば、名づけて帰根といい、帰根離れざるを、名づけて定静といい、帰根定静の後、その心は泰然とし、内に看るところなく、外は無為の如く、垢ならず浄ならず、毀誉は生じず、智ならず愚ならず、利害は侵さず、各々その中を守り、各々その常を行い、時とともに常に息う、これを上智という。それ心は猶お眼の如し、繊塵が眼に入れば、眼は常に安からず、小事が心を朦ませば、心は常に定まらず、安からず定まらず、その病は癒々深し、随い起これば随い治め、動かざるに令むること勿れ、調和純熟すれば、自ずから安閒を得る。昼なく夜なく、行住坐臥、事に応じ物に接し、意を著けてこれを安んじ、心もし定を得れば、続けて安養し、煩悩を令むること勿れ、少しく安逸を得れば、漸々に訓狎し、惟だ益々清遠なるのみ、これすなわち収心の道である。
簡事とは、すなわち凡事過ぎたるを求むべからざるを謂う。例えば食中の珍錯、衣中の綾羅、財中の金玉、身中の名位、これらは皆分外の玩好であり、我が心神を乱すに足るものは、遠く避けるべきである。簡事の旨は、これのみである。一寐一餐、損益これに寄る。一言一動、福禍これに随う。よく先見する者は、時刻に微を防ぎ漸を杜ぎ、これを無形のうちに消す。しかし事に費やすべからざるものあり、物に棄つべからざるものあり、また虚懐もってこれを受く。心を妨げ、煩躁を生じ、自らその心を病むこと勿れ。最も除き難きものは、色欲に過ぐるはなし。色は想より生ずることを知るべし、想もし生じなければ、終に色の事はなし。色は即ち空、想は即ち幻。…
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